想像力という柱

寒い日が続きます。先日は大寒でした。

日本特有なのかしらないですけど、季節の節目というモノを作って、こういった名前をつける、そしてその名前がちょっとカッコイイという文化は、自分はとても好きです。寒さが大きく成長し、その絶頂を迎える、という、バトルで言えばクライマックスシーンですからね。

大寒「俺をここまで本気にさせるとはな……いくぜ!」

みたいな。みたいな?

さて、今日のよしなしごとは、「想像力」についてです。

お子様を育てたことがある方はご存知のことと思いますが、赤ちゃんは基本、大人とのコミュニケーションが得意ではありません。まだ、我々が一般に使うコミュニケーションのルールブックを読んでないですからね(欧米的言い回し)。

うちも現在1歳の女の子がいますが、ご機嫌ナナメだとまぁ、何をしたいのか、何を望んでるのか、解らないです。とりあえず泣きますからね。仕方ないからこっちでいろいろと気を回し、想定して、環境をつくることを繰り返します。

この時は、親の想像力というものが、バッキバキに訓練されると思います。自分は、初めての育児ですので、子供の、未知の行動に対応しようとすることで、自分の脳内に走る電気信号が、明らかに新しい分野に踏み込んでいるのが良く解ります。

子育てだけではなく、自分がピンチになる回数が多いほど、この「想像力」は、成長していくのではないでしょうか。どうすればこの状況を切り抜けられるか。自分が生き残れるかを、想像します。

基本的な、想像力を育む方法としては……うーん、そんな高尚なものではないと思うんですけど、えっと、例えば我が国の誇るアニメは、キャラの表情は記号化されていますし、各シーンにそれっぽい音楽も付きますので「今、このキャラが何を思っているか」が解りやすいですよね。だから、想像力をあまり使わなくても楽しめます。

でも「なぜこのキャラはこの靴を選んだのだろう、どこで買ったのだろう」とかいう部分に着目すると、途端に難問になったりします。人が靴を買う時、何を理由に選ぶか。ダサくても履きやすい靴か、デカくても暖かい靴か、はたまた、機能性は低くてもオシャレなものか。若い設定のキャラなら、親が選んだものなのか。靴の選択がそのキャラの生き方に基づいていると考えてみると、想像がとまりません。

また、実写ドラマでも、無音無台詞で「表情で魅せるシーン」なんかは、想像力使いますよね。自分はそれが好きだったのですが、でも最近は解りやすいようになのか、心の声とかナレーションついちゃったりして。自分はアレでげんなりしちゃいます。ドラマ本当に見なくなりました。これじゃ役者さんじゃなくて良いじゃん、って。話が逸れました。

こんなふうに、「正解を見つける」のは難しいかもしれませんが、想像力を「育てる」事自体は、それほど難しくないと思います。

この想像力は、子供相手だけではなく、対人一般はもちろん、お話の創作や、絵や製品の製作のメイン武器にもなることは、それこそ、想像にカタくないですよね。

自分は、この「想像力」は、人間をつくる「柱」だと思っています。柱だから強いです。

なので自分は、この想像力を使う、鍛える、ということを、とても大事に考えています。なるべく、ヒトの手を借りずに自分の仮案を立ててから、なんかの資料にあたったり、ヒトに尋ねたりするようにしています。

逆に、ノーシンキングで即グーグルは、想像力の芽を刈り取られる気がして、ちょっと怖いです。即ググした瞬間に自分は、想像力のパラメータを一つ下げて、「無思考奴隷パラメータ」を一つ上げてしまったと思っています。奴隷は嫌。

そうそう、奴隷と言えば……SNSが出来たからでしょうか、

「ピンチを経験させようとする人は悪だ」

「想像力を働かせない自分は悪くないよね」

「自分は変わりたくない社会よ変われ」

という、人がつい吐いてしまいがちな「弱音」を拾って大きくして「意見」として扱い、TVニュースでさえも、それをあと押しする風潮を昨今、感じます。

現在のメディアは既に、お金を稼ぐことが存在意義となってしまっていますから、こういったキャッチーな文言……いやアヘンですよこれは、をまき散らして、引っかかった人を集めて、またウチにお金をちょうだいね、気持ちよくなりたいでしょ?ってします。

おっそろしい……時代の荒波ってやつですか。

この荒波は、鍛え抜かれた想像力で乗り切ることができると思っています。悲しみに飲まれ落ちてしまえば、痛みを感じなくなります。ココロを燃やすことができるかどうか。

ウォウウォーウゥオオ

おしまい